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山城探訪〜海ノ口城〜

2017.03.16(13:28) 723

海尻城から車で10分程、野辺山方面に向かう道路端に、「信玄公初陣の地 海尻城」という案内が出てきます。

武田家にまつわる事柄が編纂されている「甲陽軍鑑」と言う書物の中に、この海尻城の戦いの記述があります。

天文五年丙申十一月廿一日、信虎公甲府を打立、信州へ御働の時、信虎公まきほぐし給う。信州海野口という城を三十四日まきつれ共、大雪故、信虎勢彼城を責落すことならずして、 同十二月廿六日に甲府へ信虎公御馬入給ふ。子息晴信公しんがりとありて、跡にさがり、甲府へはゆかずして、本の海野口へもどり、其勢三百ばかりにて御父信虎八千の人数にて叶はざる城を、のっとり給ふ。

内容としては、晴信(信玄)が一番最後尾となり、敵方に撤退と見せかけて、油断した所を一気に攻め落としたという事柄のみが淡々と書かれています。
天文5年12月27日を西暦に直すと1537年2月8日。
長野県内でも有数の寒冷地、折しも大雪に見舞われている状況で、この城攻めが行なわれた訳です。
文章にするとあっさり1行にも満たない記述ですが、自分がその場にいたとして、この状況を考えてみると、なんと過酷な戦況であった事でしょう!

「甲陽軍鑑」は創作とも取れる内容があると指摘されていて、この海ノ口城の戦いに関しても実際にあった話かどうかが疑わしいという向きもあるそうですが、何にしてもこの海ノ口城が実際どんな山城であったのか、もの凄く興味をそそられます。
今回の山城巡りの一番の目的地こそが、この海ノ口城だったのです。

さて海ノ口城の案内看板には、「徒歩30分」「車5分」とありました。
これを僕は早合点して、「ありがたい!夕方も押し迫ってきたし、車で5分でいけるなら楽勝だ。」などと、都合良く解釈してしまいましたが、後にこれが大きな間違いである事に気がつきます。

案内板に従って急な坂道を車で登って行くと、途中に「海ノ口の城郭へは車でいけません」と書かれた看板が!
「話が違う〜!」と思いながら、とりあえず車を降りて先に進んみると,やにわに林道となって、急に道が荒れだします。
一応、車の轍らしきものはあるので、車で行けない事もないとは思ったものの、この悪路では車の底を傷める恐れもあり、歩いて進む事にしました。
その時は、「かれこれ車で3分近くは走ったので、もう少しで山城だろう。」という甘い見込みもありました。

しばらく歩いていると、目の前に少し開けた場所があって、何とそこが駐車場になっていました。
しかも、駐車場の看板と一緒に、「これより徒歩30分」という案内板があるではないですか。Σ(゚д゚|||)
それを見て、ようやく最初に見た看板の「徒歩30分」「車5分」の意味を理解しました。
帰途に就く時に、件の看板を見返してみると、「徒歩30分」+「車5分」とあり、ちゃんと間に「+」が入っていました。(T_T)

時間はすでに4時10分を回った所。
行きが徒歩30分として、往復で1時間位の時間を考えると、日が落ちる前に、ここは急いで登らなくてはなりません。

そんなこんなで、変なスイッチが入ってしまい、頭の中では大河ドラマの武田信玄のテーマが再生されつつ、怒濤のヒルクライムとなりました。
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残念ながら、そのアドレナリンは30秒程で切れてしまいましたが。。。。。
城址への道は、枯れ草で覆われていて分かりづらく、途中、本当にこれは城に行く道なのだろうかと不安に駆られる程でした。
その枯れ草も足首が埋まる程積み重なっており、それが急な斜面になると足を取られて何度も滑りそうになりました。

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武田軍は、夜陰に紛れて、雪の中この坂を登って行ったと言う事になるのでしょうか。
調べてみると、この夜の月は月齢13.4moon_phase_13.pngで、満月に近い大きさ。
仮に雪が止んで、雲間から月が覗けば、降り積もった雪も照らされて、辺りは仄かな明るさがあった夜かも知れませんね。

息も絶え絶えの状態で、何とか本郭の所に到着しました。
城を守っていた兵士も、雪の積もった中、夜の間にここまで敵兵が攻め入ってこようとは思いもよらなかったでしょうね。
海ノ口城の戦いの信憑性はともかく、相手方がまずあり得ないだろうという心理の虚をついたこの戦いは、若き武田信玄の非凡な将才を物語っていると言えます。
でも僕としては,信玄に伴われて雪の降り積もる夜の山中で身を潜め、この山道を登ってきたであろう、名も無き300名の兵士に何よりも賞賛を送りたいと思います。
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帰りは登りで体力をほぼ消耗し尽くしてしまったため、まさに落ち武者状態に。
行きと同じく、足下の落ち葉に難儀しながら、這々の体で下山しました。
途中に停めた車が見えた時には、無性に嬉しかったです。
それでも往復して4時30分を少し回った所で帰って来れたので、登りのきつさを感じましたが、実際には、それ程距離はなかったようです。
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本当は、このまま佐久に帰る道すがら、志賀城や内山城、耳取城なども回りたいと思っていたのですが、日没となり次回へ持ち越しとしました。
本音を言えば、膝がガクガクになってしまい、ギブアップです。
やはり山城は「守るに易し、攻めるに難し」でなくてはなりませんので、僕如きに易々と登られるようでは面目丸つぶれですものね。

翌朝は、尾根を猛スピードで下っている夢を見ていたら、実際にふくらはぎが攣って、目が覚めました。
(ノ゚ω゚)ノ*.オオォォォォォォォー


ちなみに、小海、海尻、海ノ口とこんな山間の中なのに海にまつわる地名が並んでいると言うのも不思議ですよね。

調べてみると、その由来は,約千年前八ヶ岳が水蒸気爆発を起こした時に発生した土石流が千曲川の流れを塞き止め、辺り一帯が天然のダム湖の様な状態になったそうです。
その湖の事を海と表現したらしいのです。
そして丁度その塞き止められた辺りが海尻で、川が流入する地点が海ノ口という名前の由来になったとの事。
また、相木川の流れが塞き止められてできた規模の小さめな湖が小海と呼ばれていたのだとか。
これらの湖は120年にわたり存在していたそうですが、決壊してやがて消えてしまったそうです。
その地名のみが、当時の湖の存在を伺う手がかりとなっています。


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山城探訪〜海尻城〜

2017.03.14(22:26) 722

丸子城から下山してすぐ、次なる目的地、南牧村にある海尻城へと一気に車を走らせます。
丸子から立科、望月、佐久、佐久穂、小海と八ヶ岳を軸に時計回りに巡るドライブ。

快調に車を飛ばしていると、立科町に入った所で、ふと案内板が目に留まりました。
気になって、途中で車を止めて看板の所まで戻ってみると、その看板の袂に「切石」と呼ばれる石が転がっていました。
面白いのは、その石の頭の所が、まるでノコギリで切ったように綺麗な溝になっていました。
何でも丁度この場所が、昔の小県郡と北佐久郡の境にあたる所であったようで、この溝がその境界を示す役割をしていたそうです。
疑り深い僕は、元々こんなに綺麗な切れ込みが入っていたかどうかが疑わしくて、しばし切石をじっくりと検分してしまいました。
端で見ていたら、おじさんが石の周りをグルグルと回っている姿は、さぞかし怪しい人に映った事でしょう。
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途中、立派な藁葺きの山門に目を奪われ、反射的にお寺の駐車場に飛び込んでしまいました。
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そのお寺は「津金寺(つがねじ)」と言って,佐久三十三番観音札所の33番目にあたるお寺だそうで、去年その1番目にあたる釈尊寺、2番目の東漸寺にジョギングにて参拝していたので、一足越えでお詣りにくる事となりました。
山門の堂々たる構えもさることながら、そこにドーンと構える仁王像は、独特の雰囲気がありました。
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実は、仁王像は未完成のままここに佇んでいるそうで、その由来が、これを作成した九頭権現がこの仁王像を制作する際に、その制作過程を覗いてはならぬという禁を破って、見てしまった者がおり、たちまち龍の姿となって昇天してしまった為という、つるの恩返し的なテイストの逸話があるそうです。
逆に、この木肌が荒削りの状態の仁王像であるが故に、かえって迫力を感じてしまいます。

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地元では野草の寺としても知られ、もう少しすればカタクリの花が見頃を迎えるのだそう。

さらに本堂の奥の裏山には、滋野氏が建てたという石造宝塔があります。
滋野氏は、奈良時代から平安時代にかけて、この辺り一帯を治めていた氏族で、僕が住む地籍が滋野と呼ばれるのも、この滋野氏に由来しています。
滋野氏は、後に海野氏、望月氏、禰津氏という傍流を生み、一説によると真田氏もこの滋野氏を祖とする一族になるとも言われています。
ふと立寄った寺で、何やらご縁を感じ、自然と手を合わせていました。
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この時は、気がつかなかったのですが、実は武田信玄がここに立寄り、脱いだ兜を松に掛け、腰掛けたとされる石もあったそうなので、またカタクリの花が咲く頃に立寄ってみたいですね。

当初は、一目散に海尻城に行く予定だったのが、思わぬ所で寄り道してしまいました。
3時を過ぎる辺りでようやく海尻城のある南牧村に入ってきました。
周辺を山で囲まれている為か、まだまだ日が高いとは言いながらも、うっすらと日が陰り、夕方の気配が漂い始めます。

本日2城目となる海尻城は、武田家が信濃攻略に際し、前進基地となった重要な拠点となった山城だそうです。
山城の登り口は医王院の境内に入ってすぐにあります。
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これぞ山城の入口という感じの冠木門をくぐると、そこから標高50m程の小高い山そのものが、海尻城となります。
登り始める事5分程で、本郭に到着する事ができましたが、途中落ち葉の下の地面が凍っており、何度か足が滑りそうになるヒヤッとした場面もありました。
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海尻城は尾根が街道に向かって張り出した構造になっているので、野辺山側も佐久穂側のいずれに渡っても見通しのきく要害であった事が分かります。
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今度は海尻城から,いよいよ信玄初陣の地、海の口城へ向かいます。
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山城探訪〜丸子城〜

2017.03.14(10:09) 721

よく晴れた日曜日、冬の寒さが緩み、雪解けした大地の片隅に鮮やかな若芽がうっすらと見え始める頃は、いよいよ山城攻めにもってこいの季節です。(僕の個人的な意見ですが・・・)
何故なら、季節が夏に入ると草に覆われて色々な遺構などが隠れてしまったり、山の中に入れば、蜂や、熊、蛇などの虫獣に対する気遣いもしなければなりません。
その点、この季節の山は草木が生い茂っていない分、見通しがよくて走りやすく、雪も溶けてきているので、足場も安定しています。

先日、購入した宮坂武男先生の「信濃の山城と館」に触発されて、機会があれば思う存分山城探訪をしたいと思っておりました。
今回は、丸子町で行なわれている「東日本大震災チャリティーつながるマーケット」へ足を運びつつ、その会場近くに位置する丸子城を皮切りに、一気に南牧村へと転進して、武田信玄が信濃攻めで行軍したルートに位置する山城を回れる限り回ると言う壮大な!?(無謀な)プランを立ててみました。

まずは10時の開催に合わせて、マーケットの会場である丸子総合体育館に到着。
第18回を数える復興バザーも今回が一区切りと言う事で、朝から大勢の方が足を運んでおられました。

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これからの山城攻めに備えて、マーケットの屋台で充分エネルギーを摂り、道中カロリー切れになっても大丈夫なようにおやつも購入して、早速丸子城へと向かいます。
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丸子城の登り口に位置するのは、木曾義仲に由来が深いとされる安良居神社。
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義仲挙兵にあたり、戦勝祈願を行なったとされる神社で、上丸子区の氏神になるそうです。

この境内から隣の芝生公園に回り、丸子城へと登って行きます。
丁度尾根筋に沿う形で、歩みを進めて行くと次第に傾斜がきつくなり、道幅も狭い上に、左右は切り立った谷となっています。
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ちょっと油断をして、道を踏み外そうものなら、麓まで一気に転がり落ちてしまいそうです。
高所恐怖症の僕は、おっかなびっくりで足を運ぶ事になったので、快調に登っていたスピードに急ブレーキがかかってしまいました。

さすが、丸子表の戦いで徳川家康の軍を迎え撃った山城だけあって、簡単に人を寄せ付けません。
まさか、最初の山城でこんな苦戦を強いられるなんて思いもよりませんでした。
ここまで登るのにこれだけ体力を費やしていると言うのに、ここからまた敵方と切り結ばなければならないなんて、僕なら間違いなく、登った所でサクッと討取られてしまうでしょう。

急な斜面の岩場に備え付けられたロープを伝って登り、程なく歩いて行くと、そこは二の郭のある開けた場所となっていました。
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櫓から景色を臨むと、丸子の町から遠く浅間山の様子まで一望できます。
往時もこうして敵が布陣する様子を眺めていたのでしょうね。
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さて二の郭からさらに稜線に沿って400m程進み、いよいよ本郭へと向かいます。
山の構造上なのでしょうが、二の郭から本格までの距離が随分あるように感じました。
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ここが山城の心臓部にあたる部分で、雨水を利用した井戸の遺構が残されていて、戦いの生々しさを感じます。
喉の渇きを、この井戸に溜まった水で潤すこともあったでしょうね。
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そのまま、尾根を進み、結局山を縦断するような形で、下山しました。
当初は、これ程時間がかかるとは思わず、予想以上に難儀しました。
麓から山城を臨むと丁度2こぶの山頂部にあたる部分が二の郭、本郭になっていたようです。
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こうして見るとなだらかな稜線に見えますが、実際には、山稜の狭い道幅、時に急峻な登りがありと、なかなか険しい道筋でした。
その分、山の地形を余す事なく利用した山城の威容は充分感じ取る事ができ、大満足です。

徳川家康もこの丸子城を攻める際には、攻めあぐねて撤退したそうですから、随分と苦々しく思った事でしょうね。



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山城探訪
  1. 山城探訪〜海ノ口城〜(03/16)
  2. 山城探訪〜海尻城〜(03/14)
  3. 山城探訪〜丸子城〜(03/14)