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2006'01.31 (Tue)

体の寸法

折りに触れて、「近頃の若い方は・・・・」、なんて言い方をすると、あたかも今の自分と若い人との間に、大きなジェネレーションギャップが付いたように感じてしまいます。
まだまだ「近頃の若い方は・・・・」と括られる、境界線上にいると思いたい僕にとっては、常日頃、この言葉はなるべく用いないように意識しています。(笑)
それでも、僕自身、近頃の方はとつい、口にしてしまうことがあります。
それは、若い方が皆さん、体型がスラッとしていて、足が長くなってきた事です。
特に、膝下から足までが長いなあと思うような方が随分と増えたように感じます。
典型的な日本人体型の僕としては、羨ましい限りです。

ここ100年の間に、日本人の体型は大幅に変わりつつあるようです。
その背景には、今の日本が、食の欧米化が進んだ事が、その体型の急速な変化の一因とも言えます。
ちょっと前まで、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」と自負していた事もある日本人の体型は、さらに、あと何世代かすれば、そう言った言葉が当てはまる体型の人の方が少数派になってしまうかも知れません。


我々が治療をする際は、必ず目当てのツボに鍼やお灸をするわけですが、この時、その目安の取り方として、骨度法というものを利用して、おおよそのツボの位置を把握していきます。
人によって当然体型が異なる訳で、例えばある所から3センチ上にあるツボという言い方をすると、背の高い人の3センチの箇所と、低い人の3センチの箇所では、全く違う場所になってしまいます。
そこで体の目立つところを目印として、その目印と目印を結んで10等分とか、5等分とかした内の何分目か、という取り方をすれば、体の大きい人、小さい人関係なく、その人の体の尺度でツボの位置を定めることが出来ます。

そうした基準の寸法を示す内容が、以前も話題に触れた黄帝内経に記載されています。
例えば、成年男子の身長は七尺五寸、頭の周径は二尺六寸、胸囲四尺五寸、腰囲四尺二寸というような具合で、体の各所の寸法が予め決められています。
この場合、1尺=3センチといった固定された長さ・数字を指すものではありません。
あくまでも、その局部の寸法の目安として用いられます。

これにより、昔の人の体型から、現代人の体型がいかにかけ離れようとも、ちゃんとツボの場所の目安を置くことが出来るのです。
19:15  |  東洋医学  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.28 (Sat)

モーツアルト生誕250周年

昨日27日はモーツアルトが生まれた日だったそうです。
それ以後、今に至るまでモーツアルトの音楽は世界のあちこちで流れ、また多くの人々に愛されています。
最近では、モーツアルトの音楽そのものに癒しの効果があると言うことで、音楽療法や、医療施設などでのBGMとして、幅広く利用されています。

音楽の素養に乏しい僕でも、モーツアルトの曲を聴けば、曲の名前が分からなくても、「この曲知ってる!」と分かるものばかりです。
モーツアルトのように、その死後もこうして彼の息吹を感じることが出来る音楽の力というのはすごいなあと感動してしまいます。
古今東西、どの文明、文化を見渡してみても、人間が生活するところ、必ず音楽が存在していたのですから、音楽が医療の分野で脚光を浴びるのも頷ける気がします。

東洋医学でも、その人の持つ声色や声の調子など聞いて、それを診断する上で参考にすることがあります。
例えば、音楽を習う上で、音階というものがあります。
今、我々が学校で習う音階は、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドが基本的なものであるかと思いますが、それとは違って、中国には、角(かく)・微(ち)・宮(きゅう)・商(しょう)・羽(う)という音階があります。
我々が慣れ親しんでいる音階にこれを当て嵌めていくと、宮=ド、商=レ、角=ミ、微=ソ、羽=ラと言うふうになります。
この五つの音階を五音と呼んで、東洋医学では、これらの音がそれぞれ五蔵(肝心脾肺腎)に対応していると考えています。
つまり肝には角、心には微、脾には宮、肺には商、腎には羽となり、蔵の持つ音が、その人の性質として、声に現れるという診方をします。
もしくは、病気になって、五臓六腑が弱ってしまったり、もしくは異常に高ぶってしまった時等には、こういった五音にも何がしかの変化が現れることもあるのです。
その人の持つ、五音というのはそうそう変わることがありませんが、それでも極度に心身が疲労してしまった時や、大幅に五蔵の調和が崩れてしまった時などには、本来の声の調子から大きく変わってしまうということもよく見られることです。

また逆に、これら五蔵の調和が乱れることで、ある音を聞くと、それにより精神状態が乱れると言うこともあります。
東洋医学の古典などにも、ある臓腑が乱れると、木と木を叩いた時に鳴る音を聞いただけで恐れおののいてしまうといった症例が幾つも記載してあります。
身近な所で話をすれば、普段は気にならない物音や隣近所の音楽、もしくは身内の小言などが、体や気持ちが疲れている時などに耳にすると、やけに耳障りだったり、癪に感じてしまうことないでしょうか?

東洋医学では、その人の持つ声の調子や精神状態の変化も、診断の際の一つの情報として組み入れながら、治療を進めていきます。

そうして考えると、心身が疲れた時に、自分にとって気持ちいいと思える音楽を聴いて、心を落ち着かせることは、一つの自己治療とも言えるかもしれません。

ちなみにモーツアルト生誕250年を記念したCD大全集なんていうのも発売されるそうです。
ジャンル別に全24巻もあり、CDにすると全部で180枚。 
お値段は、なんと税込252,315円!だそうです。

さらに1月31日はシューベルトの生誕の日ということで、音楽会の巨匠のお誕生日が続きますね。
17:23  |  東洋医学  |  TB(1)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.25 (Wed)

脉診?脈診?

よく患者さんとのお話の中で、「“えいしん”って何ですか?」と尋ねられることがあります。
確かに、僕もこの業界以外で脉と言う漢字を見かけたことはありませんので、多くの方がそうお尋ねになるのももっともな事だと思います。
漢字そのものは脉=脈ですので、そのまま“みゃく”と言うふうに読みます。
この脉・脈はその字面通り、心臓のポンプ作用により、血液が押し出さされ、それによって血液の通り道である血管が波打つ現象、つまり脈拍、脈動、鼓動を表す脈であります。
東洋医学では、患者さんが今現している体の状態、治療の方針、方法、予後などを、主には手首で拍動している脈動を診ることで、判断していきます。
これを脉診・脈診(みゃくしん)と言います。
ですので、「脈診」と表記してもけっして間違いではありません。
むしろ、この脈を当てた方が、素直に“みゃくしん”と読めるかも知れません。

では、なぜ恵樹堂でこの脉診という字を使用しているかと言いますと、やはりこの脉診を最初に勉強するにあたり、その教科書とも言うべき書籍に引用されている“ミャク”という字に、この脉の字があてがわれているのが大きな理由です。
その教科書と言えるもののいくつかに、中国に現存する医学書では最も古い「黄帝内経(こうていだいけい)」という本があります。
この本が記されたというのが、今から2000年以上前であったとされているので、中国史の中では、春秋戦国時代から前漢の時代にかけての間に成立していたと考えられています。
現在、巷で言われる東洋医学的な思想というのは、この本を元として、成り立っていると言っても過言ではありません。
その後に著された東洋医学に関する書物などは、ほとんどが、この黄帝内経の註釈であったり、批評であったり、この本の内容に自らが臨床で気づいたことを肉付けしたりと、まさしく東洋医学の源流とも言える、我々にとっては必携の本とも言える代物であります。

その本には、一貫してミャクの事を脉という風に記載しています。
東洋医学では、この脈拍というのをただの血液の流れとは捉えず、脉を拍動させている要因を気の流れとして考え、その上で、この脉診という診断の仕方が構築されています。
鍼灸治療で“ミャク”をとるという場合には、気の流れも含めた拍動を捉えるという考えに基づいています。
ですので、黄帝内経に引用されている脉と言う漢字の表記を尊重して、恵樹堂ではこちらの脉を用いています。

では実際にこの脉によって、体のどういった状態を見ているのか?、と言うことに関しては、とても長くなりそうなので別の機会にで触れたいと思います。


蛇足ですが、恵樹堂の門標は
脉診流

脈の字が使われておりますが、この門標は、書道をたしなむ祖父にお願いして書いて貰いました。
当初は、脉の字で書いて欲しいと依頼してあったのですが、これではみんな読めないだろうとわざわざ気をきかせて、脉を脈に書き換えて送ってくれました。
せっかくのご厚意ですので、今は有難く門標として使わせて頂いております。(笑)
17:52  |  東洋医学  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.23 (Mon)

柚子入り七味

先日、柚こしょうの話題がありましたが、柚子関連でもう一つ。
柚子七味

善光寺名物、八幡屋磯五郎の柚子入り七味です。
我が家では、うどんやお蕎麦の薬味として欠かせないものです。
善光寺を訪れた方は、必ずと言っていいほど目にされたのではないでしょうか?
その昔、善光寺をお参りした事の手形とまで言われていました。

ちなみに七味唐辛子というと、蕃椒(唐辛子)、白薑(生姜)、紫蘇、山椒、陳皮、胡麻、麻種が薬味として用いられています。
さて、我々が普段何気なく「やくみ」といっていますが、もともと薬味というのは、東洋医学用語から派生した言葉で、酸、苦、甘、辛、鹹(しおからい)の五味のことを指していました。
これらの五味は、薬の調合を行う際や食養生を行うに際して、とても重要な要素でした。
本来はそう言った処方に用いられた薬味という言葉が、お蕎麦などにふりかける薬味としての意味を持つようになったのは江戸時代からだと言います。
これ以前から、すでにショウガが薬で用いられる薬味として、広く一般家庭に広まっていました。
そして当時は、ショウガが辛いものの代表する薬味とされていたので、辛い物全般を全て薬味という形で表すようになったと考えられています。

また、かやくご飯の“かやく”も医学用語が語源となっていて、漢字で表すと「加薬」という風になります。
医者が出した処方とは別に、患者に生姜などを自宅で煎じて加えるようにと指示したりした事が、この加薬という由来になっています。
まだ小さい頃に「かやくご飯」を「火薬ご飯」だと思っていて、ものすごく危険な食べ物を頭に思い浮かべ、あえて食べないようにしていたこともありました。
23:55  |  日記  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.21 (Sat)

バス停が・・・

初雪



すっかり雪で覆われて、ガーデン下の文字が隠れてしまいました。
今朝は、路面をチェーンを付けた車が走る音で目が覚めました。
外に出ると、すっかり銀世界になっていました。
今年、横浜での初雪ですね。
天気予報がピタリと当たりました。
お出かけの際は、足下が滑りますのでお気を付け下さい。
09:21  |  日記  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.20 (Fri)

文人悪食 嵐山光三郎著 新潮文庫 

この本では日本を代表する37人の文士の、食生活から、その人物の人間性や作品の根底にある人生観などを詳細に解説をしています。
兎に角、こういった文士の方々というのは、自分の不幸や、異常性を作品の肥やしにしているところがあって、その生涯も波瀾万丈です。
人が生きる上で、基本的な事というと、やはり衣食住であります。
その中でも、食の嗜好と言うのは、その人の育った環境や性質が如実に表れる部分でもあります。


商売柄、こういった内容の本を読むと、食べ物の嗜好から診断をすることもあるので、どうしてもこの人はどんな病気になったのかとか、どういった体のトラブルに悩まされていたのかというのを考えてしまいます。

正岡子規などは死ぬ間際まで、その異常なまでの食欲を抑えることが出来ず、自らを責めるようにして喰い続けて死んだとありますが、東洋医学的に考えれば病的に消化をつかさどる臓腑が亢進してしまったことによって、その持って生まれた生命力という物をドンドンと枯渇させていったのではないかと考えます。

人間は父親母親から受け継いだ生命(先天の気)と自らが呼吸や食べることによって養っていく(後天の気)によってその命が保証されています。
この時、この先天の気と後天の気は相互に協力し合い、時に抑制し合いながら、生命を維持する為の絶妙なバランスをとっています。
さながらクリスマスツリーのモミの木を先天の気、デコレーションを後天の気とすると分かりやすいでしょうか?
先天の気というのは、生まれた段階である程度決まっているので、人間はこの後天の気をいかに上手く取り入れることによって、その後の体の状態が変化してきます。
その時に、自分の枝振りを考えずに闇雲にデコレーションを付けていけば、その屋台骨である枝には相当な負担がかかることになって、枝が細い場合には折れてしまうことだってあります。
とかく、人間は飢餓の状態には非常に強いので、食べた物をいつ飢えてもいいようにと貯蓄しようと言う力は優れているのですが、その逆の満たされすぎる状態には非常に脆くなっています。
近年は飽食の時代となって、先天の気を消耗するほど、後天の気を養いすぎている機会が多いと思われます。
このとりすぎた後天の気は、時として体にとって余分な物として存在する事もあります。
東洋医学ではそれを“邪”と呼びます。
この邪によって、今の生活習慣病と言われる疾患が生じていることも多いです。

本の感想から、ずいぶんと脱線してしまいましたが、この本を読んでから、もう一度ここに紹介されている人達の本なり、詩なりを読むと、違った視点から内容を捉えることが出来て、より作品を楽しめるのではないでしょうか。
23:34  |  読書  |  TB(1)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.19 (Thu)

難しい漢字

先日とある漢字を調べていて、その時ふと、一番画数の多い漢字はどんな漢字だろうと思い、ちょっと調べてみることに・・・・。
僕の使っているパソコンの中で、表示できる最も画数の多い漢字は、なんと48画!
48画


これでもか!と言うくらいに、龍のオンパレードですね。
音読みで「トウ」と読むらしいのですが、一体どんなときに使われる漢字なのでしょう?

今度は、持っている漢字辞書でも調べてみると、こちらの方は最大画数が33画。
33画


こちらは、こちらで鹿が群れをなしています。
この字は音読みで「ソ」、訓読みすると「あら・い」、「はな・れる」と読みます。
普通に生活していれば、こんな漢字にもまずお目にかかることはないかと思います。
しかし、鍼灸に携わる者には、この漢字は、時折その東洋医学の古典に出てきたりして、割合馴染みがあります。
“ソ”(パソコンで変換できないようです。)というのは、まだまだ技術の至らぬ医者のことを指し、本の中では戒めの時によく用いられる言葉です。
“ソ”は形を守り、上は神を守る」と言うと、“まだ技術の稚拙な若輩者は、鍼を刺すことばかりに気をとられ、患者の体の状態などを考えずに治療をしている。対して、技術が熟達する者は、そこに患者の状態、気の変化を考慮に入れながら、今その人にあった治療を行える者である。”という意味になります。
つまりこの“ソ”というのは、鹿は、それぞれ密集して走ることはなく、思い思いの方向に散ってしまうので、そこからバラバラになるとか、粗いと言う風な意味を持つ漢字となっています。
つまり、荒削り=未熟な医者と言うことになります。
この言葉は、現代に生きる鍼灸師にとっても、今なお生きた言葉であると言えます。
21:04  |  日記  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.18 (Wed)

頭髪の日

毎月18日は、十(とう)、八(はち)で「頭髪の日」になるのだそうです。
それを思えば、8月9日や9月8日は、「はりきゅうの日」もしくは「きゅうはりの日」の日と言うのがあってもいいですよね。

床屋さんや美容院さんによっては、毎月18日になると頭髪の日にちなんだキャンペーンなどをされるところもあるのでしょうか?
髪と言えば、昔、育毛剤のコマーシャルで「髪はなが〜い友達」というのがありましたね。
まだ小さい頃だったので、あのコマーシャルのおかげで「髪」という漢字を覚えました。
あのコーマシャルにある様に、髪という字の構成を見ていきますと、長と彡と友という字から成り立っています。
「長」という字はもともと氏族の長老を指した文字で、字体は長髪の人の姿を表しています。
当時は長老となる人のみが長髪を許されされていて、そこから責任者や代表を表す時の長という意味が派生しているそうです。
「彡」はその髪の豊かな様を表すものであり、「髟」でたてがみと読みます。
そこに髪の字の音符となる「友」という字が加わるのですが、本来は友という字ではなく、「髮」の下にある字体になります。
犬という字の右側の足に、たすきを掛けたような字体なのですが、僕のパソコンではこの字単独では変換できませんでした。
この字単独で「ハツ」と読みます。
ですので意味としては、「髪は長い友達」というものではなく、もともと髪の毛を表す「髟」の字に、音符の「ハツ」で組み立てられたのが「髮」となります。
ちなみにこの音符である「ハツ」の字は、例えば「お祓い」という文字などにも使われていますが、「はねる」とか「バラバラにする」「発散する」「抜く」「取り除く」というような意味があります。
髪が長く伸びると、髪がぼさぼさ(バラバラ)になって、それをはさみなどで切りそろえる(取り除く・抜く)という意味にも通じてきます。
とは言え、コマーシャルのように、出来れば、髪の毛とはいつまでもお友達でいれたらいいなあと思っております。

12:07  |  日記  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.17 (Tue)

やぶ入り

一日遅れになってしまいましたが、16日はやぶ入りの日でしたね。
昔の商家の奉公人の方が、年に一回お休みを許されて、家に帰れる日だったそうです。
はたまた場所によってはお嫁さんが、実家に里帰りする日でもあったそうです。
丁度、昔の人のお正月休みと言ったところでしょうか。

やぶ入りの日は、地獄の閻魔様の縁日でもあり、地獄の釜の蓋も開き、さしもの鬼達もこの日ばかりはお休みと言うことになるので、地獄の亡者達もこの日に限っては責め苦を免れるんだそうです。
やはり鬼といえども働きづめばかりでなく、一年に一日くらいは息抜きも必要なのですね。
とかく、仕事に追われる生活にどっぷりとつかっている方などは、突然ポッと休みが出来ても、上手く余暇を満喫できないという人もいるのではないでしょうか。
僕は休みの日は、本を読んだり、特に買うものが無くても、ホームセンターや大手の雑貨屋さんなどに行っては、ちょっとした小物等を見て回るのが好きです。
時には、思いつきで買ってしまったネジや文具などが忘れた頃に出てきては、どうして買ったか、その目的すら思い出せないようなこともありました。
お店のショーウィンドウで見ると、何だかとても良いものに見えるのに、家に帰ってもう一度見ると何でこんなものをっていうお買い物って結構ありませんか?

蛇足ですが、やぶ入りは、他にも養父入り、六入り、十六入り、走百病などという風に漢字が当てはめられることもあります。
その中でも昔の中国では走百病の行事として、女性がお寺参りや霊山に登ったりして、一年の健康を祈念したり、子宝に恵まれることをお祈りしたそうです。

02:16  |  日記  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.16 (Mon)

総会

日曜日は東京のグランドホテルと言うところで所属する勉強会の新年総会がありました。
午前中は、座談会形式で、あるテーマに関して、選ばれたパネラーがそれぞれの意見を持ち寄り話をしました。
普段着慣れない、スーツにネクタイと言うこともあり、緊張しました。
座談会


午後の新年総会も、会場に収まりきらないくらいの会員が集まりました。
総会


その後、大分より首藤傳明先生をお招きしての講演は、御年74歳とも思えないほど凛として、講演の内容もとても中身の濃いものでした。
首藤先生

生涯を通して、一つの仕事に打ち込めるというのは素晴らしいことですね。
首藤先生のように、僕も生涯現役で鍼灸の仕事を続けていきたいと思います。
14:53  |  日記  |  TB(1)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.12 (Thu)

石川啄木

石川啄木という人は、27歳の若さにして結核で亡くなっています。
その著作に、彼の有名な「一握の砂」という歌集があります。
この一握の砂にある詩を読んでみると、その詩の中に「悲しい」と言う語句の多いことに気づきます。

何がなしに
さびしくなれば出てあるく男となりて
三月(みつき)にもなれり

かなしきは
喉のかわきをこらへつつ
夜寒(よざむ)の夜具にちぢこまる時

あまりある才を抱きて
妻のため
おもひわづらふ友をかなしむ

何もかも行末(ゆくすゑ)の事みゆるごとき
このかなしみは
拭ひあへずも

盗むてふことさへ悪(あ)しと思ひえぬ
心はかなし
かくれ家もなし
 
放たれし女のごときかなしみを
よわき男の
感ずる日なり


と言うように、「悲しい」という語句が入った詩は、あげればきりがないくらいたくさんあります。
ザッとあげてみても、これだけ悲しいという言葉を詩に引用する啄木という人は、その詩の内容から察してみても、非常に悲哀の情に苛まれていたと考えられます。

東洋医学の生理・病理観には、それぞれの臓腑に特定の心理が宿ると考えられています。
この場合、臓腑というと五臓六腑を指し、特に五蔵(肝心脾肺腎)の中に怒喜思悲恐と言う感情を宿しています。
現代医学では、感情というのは全て脳によって生み出されると考えられています。
しかし、東洋医学における脳の役割と言うのは、主に器としてであり、その器に盛られる中身というのは、五蔵の働きによって生み出されていると言う風に考えられています。

そこで、再び啄木の話に戻りますが、冒頭に掲げたように啄木の詩には、強い悲しみの感情を診て取ることができます。
東洋医学の中で、悲しみという感情は肺という部分が宿しています。
肺というのは、呼吸器の機能を受け持つもので、加えて東洋医学の考え方には、皮膚だとか鼻だとか、息づかいの変化と言ったものも全て肺の受け持ちになります。
この肺の力が不足したり、満足に働かない場合は、悲しみの感情に襲われたり、上にあげた部分に何らかの障害を起こすことが多くなります。
その逆に、外的な要因によって、強い悲しみの感情に犯されてしまった場合にも、この肺の力を削ぐ原因となり、結果として呼吸器系の病変に罹りやすくなります。
例えば悲しくなったときに、涙が出ると同時に鼻水がグシュグシュと出てきたり、風邪をひいて寝込んでいるとき、それが一人だと無性に心細くなって、不意に悲しくなってしまうという経験があるかと思います。

そう言った見方で、更に「悲しき玩具」にある啄木の詩をいくつか診ていくと


呼吸すれば、
胸の中にて鳴る音あり。
凩よりもさびしきその音!

何がなしに
肺が小さくなれる如く思ひて起きぬ―
秋近き朝。


晩年は結核に冒され、貧困と病症の中で死を迎えることとなります。
啄木は兄弟や幼いわが子を亡くすという悲しみが、常に彼の周りを取り巻いていて、自然、こうした呼吸器系を病みやすい状態に陥っていたとも考えられます。
歴史上の人物や、著名人の生き様から死に至るまでを、東洋医学的な見方で考えていくと、その性格から起こるべくして起こった病というのも見えることがあります。
またあるきっかけによって、それが五蔵の心理状態に左右して病気を引き起こしたのではないかと推察することもできます。
そう言った推察が可能であるのも、心と体の密接な繋がりを前提にしている東洋医学の特色とも言えます。

テーマ : 東洋医学 - ジャンル : 心と身体

02:27  |  東洋医学  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.11 (Wed)

鏡開き

今日は鏡開き・蔵開きの日でもあります。
昔からこの日になると、お正月に飾っていた鏡餅を割って、同時にそのお餅を食べたりします。
このしきたりは、古くは武家で行われていたそうで、武士はその立場上、刃物で切られると言うことを嫌って、あえてこの鏡餅を手で割ったり、もしくは金槌で割ったことが、今日の鏡開きの形となって継承されています。
また、「割る」という言葉はあまり縁起の良い言葉ではないので、「開く」という言葉に置き換えて、縁起を担いだことから「鏡開き」というふうになっているそうです。

このお餅を食べる場合、大体にしてお雑煮やお汁粉にして食べるかと思うのですが、お雑煮というのは、地方によって味や具の中身が違うかと思います。
僕の所では、四角のお餅を焼いて、汁には鰹だしとお醤油を使い、具は白菜、にんじん、椎茸、大根、かまぼこ、鶏肉、時として柚の皮を香り付けで入れたりします。
お雑煮

今晩食べたお雑煮です。

学生時代、京都にいた時分に頂いたお雑煮のお餅は丸い形でした。
それまでは、四角い形のお餅しか見たことがなかったので、スーパーなどで丸い形をしたお餅が並んでいるのを見た時は、すごく違和感を感じたものでした。
でも丸い形というのは、角が立たないとか、円満に過ごすと言う意図もあって、本来は丸い形の方が正統派と言えます。
それが四角お餅が出始めた裏には、保存しやすいと言う理由があったようです。
そして、それが徳島の方に行くと、お餅ではなく、その代わりにお豆腐が使われるそうです。
どんなものだか一度食べてみたいですね。
日本全国のお雑煮を持ち寄って、色々と食べ比べする事が出来たら、きっと面白いと思いませんか。
それとは別に、各家庭でそれぞれ特色があったり、具の切り方にこだわりがあったりして、お雑煮って言うのは、まさしく家庭の味というものがとても色濃い食べ物だと思うのです。
03:17  |  日記  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.10 (Tue)

韃靼そばふりかけ

韃靼そばふりかけ

最近はまっています。
以前長野に帰った折、立ち寄ったお蕎麦屋さんに、サンプルとしておいてあったものを父親が手に盛っては食べ、盛っては食べていたので、どんなものかと思ってちょっと食べて以来、はまってしまいました。
用途としてはふりかけとありますが、父親と同じように食べるのでも、美味しいのでスナック感覚でこのまま食べてしまうことも・・・。
韃靼蕎麦は苦蕎麦とも呼ばれて、苦みが強いとのことで日本では蕎麦として加工することは少ないそうですが、それでも最近この韃靼蕎麦が取りざたされることが多くなったのは、血圧を下げる効果のあるルチンという物質が抱負に含まれていることによります。
韃靼の語源としては、モンゴルに住む遊牧民はタタルとよばれ、その漢字読みをしたものが韃靼(だったん)と言うことになるそうです。
この韃靼蕎麦の原産地が主に中央アジアで、丁度このモンゴルの地域にあたるためこの呼び名がついたものと思われます。
苦蕎麦と別名になっていますが、このふりかけの味は、苦いものではありませんでした。
最近は韃靼そば茶と言うのがありますが、こちらはまだ飲んだことはありません。
どんなものなんでしょう?
00:08  |  日記  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.07 (Sat)

春の七草

朝ご飯は七草がゆでした。
七草がゆ(1)


正月七日は五節句の一つで人日の日とされています。
この日に七草粥を食べて、その年の無病息災を祈念するという日でもあります。
ちなみに五節句というと他に3月3日の桃の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕の節句、9月9日の重陽の節句などがあります。
桃の節句や端午の節句に比べるとこの人日の節句というのはあまり耳慣れないかも知れません。
他の節句が奇数のゾロ目で覚えやすいというのもあるかも知れませんが、この人日の節句の由来は、古代の中国では正月の一日より鶏、二日には狗、三日には猪、四日には羊、五日には牛、六日には馬の順に獣畜の占いが行われ、七日目になって人の占いをすると言う習わしがあり、その日にあたる1月7日が人日の節句となったそうです。
更にその次の八日には殻の占いを行うことになっています。
この1月7日は、人間にとっての一年の運勢を占い、この日の天候も占いに大いに関係があって、晴天なら吉、雨天なら凶という風になっていたそうです。
本日の横浜の天候は真っ青な空の良いお天気です。
18年1月7日空模様


七草がゆは、今年一年が恙なく過ごせるよう、祈念して邪気を払う意味と、普段とちがってお正月ならではの豪華な料理が続き、少し緩みがちな気分を、日常生活に戻す一つの区切りとして、質素な七草がゆを頂くという意味もあります。
おせち料理で食傷気味な胃腸の状態に、ほっと一息といった所です。
七草を自分で摘んで用意するというのは、今はなかなか難しいと思います。
最近ではスーパーや八百屋さんに行くと、有難いことに七草がパックに入って売っています。
現在の七草は、
芹(せり)
薺(なずな)
御形(ごぎょう)
繁縷(はこべら)
仏の座(ほとけのざ)
菘(すずな)
蘿蔔(すずしろ)
で、漢字だとものすごく複雑な漢字になるのですね。
特に七草にこだわらずに、あり合わせの青物の野菜をお粥の具材にするのでも十分だと思います。

恥ずかしながら今まで知らなかったのですが、お粥を作る時のポイントとしては、煮ている時に、あまりお玉などでかき混ぜない方が良いのだそうです。
そうすると、一粒一粒がしっかりと立って、サラッとした食感のお粥になるんだそうです。
言われてみると、いつも自分でお粥を作ると、何だかベチャとした感じだったんですよね〜。
他にも、お味噌汁を作る時も、グラグラ沸騰するぐらい煮てはいけないというのも知りませんでした。
料理って、奥が深いですね〜。(と言うか、自分が知らなすぎるんですよね。)

テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

10:50  |  からだ  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2006'01.02 (Mon)

箱根駅伝

今日は、箱根駅伝の往路がありましたね。
僕が高校まで住んでいた家は、丁度華の二区と言われる国道一号線の近くでしたので、選手の走っているところをよく生で見に行ったものです。
その影響もあって、高校・大学と陸上部に入って長距離をするようになりました。
高校三年生の時には、学校までをトレーニングがてら走って通学していたことがありましたが、その通学路に華の二区の難所と言われる権太坂の坂があって、最初の頃は学校の行き帰りを走っただけでグッタリしてしまって、授業もへったくれもありませんでした。
だから、箱根駅伝を走る人達があのスピードで権太坂を駆け上がることが出来るなんて、僕から見ればとんでもない奇跡のようなものです。

大学の頃は、周りが自然に囲まれた環境でしたので、それこそ思う存分山の中を駆け回ることが出来ました。
先輩と一緒にクロスカントリーで、起伏に富んだ山の中を走り回ったのが、とても楽しい思い出です。
しかし一度、学校のテスト期間中、気分転換をしたくて軽く走ろうと思いたち、山に入ったのはいいのですが、走っている途中から日が落ちてきて、辺りが真っ暗になり、帰り道が分からなくなって、二時間近く山中をさまよったこともありました。
本当に無事に帰れて良かったです。(お陰でテストはさんざんでしたが・・・・)

お正月のこの時期になると、この箱根駅伝に刺激されて、昔のランニングシューズを引っ張り出しては、少し走ろうかという気になってしまいます。
ですので、たいてい四日・五日頃になると筋肉痛に見舞われてしまいます。(笑)
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2006'01.01 (Sun)

2006年

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
皆さん、初日の出を拝むことが出来ましたか?
僕はあいにく寝過ごしてしまいました。
と言うことで写真は別のもので・・・・・

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最近、『日本の奇僧・快僧』今井雅晴 〜講談社現代新書〜 という本を読みました。
日蓮や親鸞等言った様々なお坊さんの生き様や、当時の時代背景などをつづった、なかなか面白い内容でした。
その中に、お正月にちなんだ一休さんにまつわる話も出てくるのですが、昔京都ではお正月の三が日には、表戸を閉めることになっていて、それは一休さんが竹の先に髑髏をぶら下げて、「ご用心ご用心」と言いながら家々を回った為なんだそうです。
周りの人は、お正月のめでたい時に何でそんなことをするのかと叱ったところ、一休さんは「髑髏の目が無くなって,空になっている。これがホントの目出たいという事だ。』と答えたそうです。
本の解説によると、人々に人生の無常を知らしめて、生死を超えた世界に目を向けるべきだという、一休さんならではの頓知の効いたメッセージであったと書いてあります。

一休さんに関しては、以前読んだ別の本の中でも、とても印象的な話があります。
随分前に読んだもので、もう本のタイトルとか、細かい内容は忘れてしまったのですが、

むかし、ある人が、一休さんを家に招いて何かめでたい言葉をしたためて頂けますかとお願いしたところ、一休さんは「爺が死に、親死に、子死に、孫が死に、さてその次は次々と死ぬ。」というようなことを書いたそうな。
その人は、めでたいということでお願いしたのに、死ぬなんて言葉が入っているのはどういう事だと問うたところ、一休さんは「それぞれが寿命を全うして、生まれた順に死んでいくのはめでたいことだ。それよりも最も悲しいことは、後から生まれたものが先に死んでしまうことほど辛いことはない。」と諭されて、その人もなるほど!と膝を叩いたという。

確かこんなような内容だったと思います。
小さい頃は、アニメの一休さんが大好きでよく見ていました。
小さい子供が大の大人を頓知でやりこめるというのが、子供心にとても痛快だった覚えがあります。
しかし冒頭にあげた本の中には、一休さんが実は時の天皇のご落胤であったとか、晩年は盲目の女性を溺愛していたというような、アニメの一休さんのイメージとはとても結びつかないような話もあります。
何にしても、一休さんというのは、一歩間違えばただのひねくれ者になりそうなものですが、色々な頓知話の中にもどこか優しさやユーモアが含まれていて、そんな所がまた魅力なのかも知れませんね。
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